2020年3月29日。新型コロナ肺炎のために亡くなられた志村けんさん。
子供から年配の方まで幅広い年齢の方からの悲しみの声が後を絶ちません。
30日には追悼番組としてNHKファミリーヒストリーが再放送されました。
この番組では、志村家のルーツをたどりながら、志村けんさんデビューに至るまでの話がまとめられています。お笑いへのこだわりや深い思いなどコントでは見られない志村けんさんの一面を見ることが出来ます。
こちらの記事では、番組で紹介されたお話をまとめてご紹介しています。
アイキャッチ画像の出典元:IZAWA OFFICE
志村家のルーツに迫る
家系図を辿っていきますと、志村家は18代約300年続くそうで、元々は甲州(今の山梨県)の出である志村一族で武田家に仕えていたそうです。
武田勝頼軍と織田・徳川連合軍との長篠の合戦で武田四天王の一人であった山縣昌景につかえていた志村又左衛門は戦死した山縣昌景の首を敵に奪われないように持ち帰ったそうで、その光景が長篠の戦の屏風に描かれています。
武田家が滅亡し、その後志村又左衛門は徳川に忠誠を誓い、甲府を出て武蔵へ移りました。
八王子千人同心という徳川家の旗本に、志村性の武士がいたとの記録が残っているそうです。
志村家はやがて八王子から近い東村山市に住むようになったようです。
志村けんの実家は志村家の総本家になるそうで東村山市久米川町5丁目にあります。
志村権兵衛 ↓
忠之助 ↓→子供がなかった
六太郎 ↓ 養子として迎えられた 志村けんの曽祖父 車大工を始めた
榮三郎 ↓ 祖父 車大工さんだった
憲司 ↓ 父 教員だった
康徳 ↓ (志村けん)
志村けんの父について
志村けんの父は、志村憲司さんです。
志村けんの実家は祖父の頃から農業を営んでいましたが、憲司さんの下には妹さんが5人いるため憲司さんは貧しい家計を支えようと、農業ではなく教職に就くことを決めます。
憲司さんは学業は常にトップの成績で級長も務めるほどでした。
合格率7倍という難関である豊島師範学校へ進学します。学業だけではなく運動も出来た憲司さんは柔道部に入り主将も務めました。
豊島師範学校と言えばのちの東京学芸大学ですが、当時の師範学校は家庭が貧しいが勉学に対する志が高い優秀な生徒が集まった学校です。
ですが、戦時中の教育はどこか兵隊さん的な教えとなっており、終戦を機に日本の教育の形はガラッと変わっていったのです。
そこで、憲司さんもさらに上の教員資格(1級免許)を取ろうと上の学校へ進学したのです。
結婚後は家庭でも子供と遊ぶということはほとんどなく、志村けんにとっては厳格な父親であったそうです。
志村けんの母について
志村けんの母は、志村和子さんです。
和子さんの旧姓は小山さんです。小山家も志村憲司さんと同じ東村山市野口町の出身です。
和子さんは8人兄弟の4女として生まれます。小山家は代々社交的な家で和子さんも活発な性格であったそうです。
和子さんは24歳の時、昭和20年の1月にに憲司さんと結婚します。
きっかけは和子さんが兄 登さんの結婚式に参列した時に、登さんの結婚相手が志村トリさんであることから、その時に式に来ていた憲司さんと出会ったことです。
志村けんの出生からデビューまで
志村けんは昭和25年2月20日に、志村家の三男として生まれます。
兄が二人、長男の知之と二男の美佐男です。志村けんの本名は康徳は父の憲司さんが名付けられたそうで、徳川家康からとった御名前なのです。
幼少の頃の志村けんから見た父親は「怖い人」。教員をしていた父親の厳格な雰囲気もあり、兄たちも志村けんも父親の顔色を伺いながら生活していたそうです。
しかしその一方、幼少の頃の志村けんは、落語や漫談が好きで時間になるとラジオの前に座っているような子供でした。
父はいつも書斎で勉強ばかりしている人で、暗くて怖くていつも難しい顔をしているように見えて家の中では冗談も言えないと思っていたそうです。
ある日のこと父以外の4人(母、兄2人、自分)でテレビで雲の上団五郎一座観ていたときのことです。急に父親が部屋に入ってきて4人はシーンとなり一瞬その場の空気が張り詰めたのです。
ところが父はそのテレビを観て大笑いしたのです。家族みんなで笑いました。
その時に笑いって凄いな!と志村けんは思ったそうです。
時は流れ昭和37年3月のある日、自宅の前でバイク事故がありました。
バイクとぶつかったのは父の憲司だったのです。 幸い全身打撲と骨折で数日の入院で良くなったのです。
しかし、それから3年後のある日のこと、中学生の志村けんが父の書斎に行きますと「どちら様ですか?」と父に言われるのです。
突然、憲司の記憶障害が発症しました。昭和40年、父 憲司は47歳で教員を休職することになってしまうのでした。
高校生になった志村けんは音楽やエンターテイメントに興味がありました。
世の中はビートルズブームです。そんな時ビートルズが来日することになりました。
志村けんは運よく高校の同級生からチケットを譲り受けることが出来て、日本武道館のビートルズ公演を見ることが出来ました。
高校三年生になった志村けんはドリフターズに弟子入りしたいと思っていました。
何のツテもありませんがいかりや長介のもとへ訪ねて行ったのです。
すると、いかりやさんからはOKが出ました。しかし突然なことで「明日から1週間東北へ行く。用意してこい。」と言われたのです。
「え?今からですか?」と聞き返す志村。
その時に頭に浮かんだのは父のことです。志村けんは迷いました。
俺が家を出たら父の面倒を母や兄たちに全部押し付けることになってしまうからです。その時の父は、もう家族を見ても誰が誰なのかわからない状態で徘徊もしていたそうです。
それでも母や兄たちはドリフターズ弟子入りに反対しなかったそうです。
せっかくいかりや長介さんにOKと言ってもらえたのだからと。父には何も伝えぬまま志村けんは家を出ました。
芸名の志村けんは、父の名前憲司から付けた名前です。
ドリフターズに弟子入りしてからはずっと楽器や荷物持ちという生活が続きました。営業の仕事で寝台車での移動も多く、メンバーが寝ている間には寝ずに楽器の見張りをしました。
悔しかった志村は、走る寝台車の窓ガラスに「今に見てろ」と指で書いたそうです。
時は流れ昭和48年父 憲司は息子のドリフターズ入りを理解しないまま54歳でこの世を去ります。
そして翌年、高校生でドリフターズに弟子入りした志村けんは1974年(昭和49)24歳の時にドリフターズの正式メンバーに選ばれます。
当時のメンバー荒井 注の後釜としての加入で、初めはブーイングばかりでなかなか受け入れられませんでした。
その後、志村けんは自分の故郷である東村山市を唄った「東村山音頭」を取り入れることで大ブレークを果たします。
その後はトントン拍子。ドリフターズにはなくてはならない人気者になっていったのです。
色々なエピソード
・小学校のお別れ会の時に仲良しの同級生と漫談を披露した。
・高校生の時、入学式で漫才を披露した。
・ドリフターズに入って「最初の1年は何やってんだかよくわからなかった」2000年の取材で話す
・飲み屋は安い赤ちょうちんの店を好んだそう、なぜならそういう店で飲む人の気持ちを知りたいから。
・おじいちゃん、おばあちゃんがだんだん子供みたいになっていくのがかわいくて好きだと語った。
・「志村けんは人間観察が素晴らしい人」by すわ親治
・母 和子さんは志村けんのデビューからずっと新聞や雑誌の切り抜きをスクラップにして保管していました。
・ファンが東村山市の実家を訪ねてきたり、観光バスが家の前に停まったりしたそうです。
・「昔、プライベートと仕事でお家を訪ねたことがあるが、志村さんのお母さんはとってもおちゃめな人。志村さんはお母さんのおちゃめな面とお父さんの笑わないまじめな面、両方を持っていらっしゃると思う。」by 笑福亭鶴瓶
・ドラマや映画は断っていたが、1999年の鉄道員(ぽっぽや)の高倉健さんのオファーはOKした。
まとめ
NHKの番組ファミリーヒストリーより、志村けんさんの実家 志村家のルーツと志村けんさんの誕生から幼少の頃とその後デビューまでをまとめました。
この番組からは志村けんさんがお笑いの仕事を選んだ意味が良く伝わってきます。
志村けんさんがいかにご両親やお兄さんからの愛情を受けられていたか、そして受けたその愛情を今度は人々に与えるために人を笑わせることを仕事に選ばれたのでしょう。
志村けんさんのお人柄がよくわかる番組でした。
最後までお読みいただきありがとうございました。